年末年始
わたしの実家は自営業を営んでいました。
そのため小さいときから
年末年始には社長であった父のもとに会社関係者や従業員。
長男である父のもとに親戚一同が顔を合わせて賑やかに新年を祝うのが慣例でした。
年末年始は、いつもより父を中心に良い家族を装ってよそ行きの顔をして人をもてなす。
小さいながらもあるものを無いように、無いものを有るように、芝居に付き合わされてるような妙な気分になった記憶がある。
その後わたしが小学四年生の時、母が家出をして消息が途切れた5年の間はお正月の賑やかな集まりもも無くなるのだが。
その差がお正月のトラウマになる。
その時期の出口のない闇のような時代を想い出すとわたしは閉塞感から不安定になる。
5年後、母と父が2人だけで話し合い。
わたしへの性暴力虐待もそれぞれの異性関係者も全ての問題を無かったことにしてヨリを戻した。
その時、私には何の相談も説明も無かった。
またお芝居のようなお正月の集まりが再開したんだけど、何だかわざとらしくて。
その時わたしはもう大きくなり、余りにも勝手な大人に呆れて、無邪気にお正月を楽しめなくなっていた。
母が飛び出したとき、さほど距離があった訳でもないのに残された私たち兄弟を誰一人見に来てはくれなかった。
何年も顔すら合わさず疎遠になったのに、なにも無かったかのように叔父や叔母達と、その子供でわたしとそう変わらない歳の従兄弟たちと、祝いの膳を囲むのだから。なんだか不自然過ぎる。
やさしい顔を被っただけ、うわべだけ
贅沢な祝いの膳やお酒を呑む叔父さん叔母さんたちに
わたしはいっそう孤独になり、肉親の冷たさに人間不信になってしまった。
そんな思い出もあり、そんなものに付き合わされたくなくてここ最近10年は実家の年始の顔合わせの参加は避けてきた。
今現在
実家の家業は長男の弟が継いでいる。
二つ年下の弟は、高校を卒業後さっさと就職を決めて実家から距離をおいて出て行った。
その時、自分は家業を継ぐつもりはないと言い切って出て行った。
その当時は知らなかったが、
弟が継がないと言い切ったからか
家業を手伝っていた私を後継者として決めて、会社の登記書にわたしを代表取締役として記していた。
私は父親に虐待と性暴力を受け中学生の時、児童相談所に保護されてから、親に対して復讐のように荒れた。
どうなってもいいと自分の人生を投げてしまった。
勉強も出来ず、高校も行けなかった。
当時、不良と言われた。
鑑別所に入り、少年院にも入った。
少年院を出た16歳からは悪い事にも飽きてきた。
でも学歴が無いから、家業を手伝うしかなかったんだけど。
夢もなにも無かったし、そこで必要とされるならと家業を継ぐと経理の専門学校に通って簿記の資格を取ったりしていた。
わたしが継ぐしかないかなと考えていた。
でも、父が病に倒れたからか、私が30歳の頃、急に弟は勤めていた会社を辞め実家を手伝うと言い出し。
父が癌で亡くなったあと
あっという間に社長を継いでいった。
後継者は出来たら男の子が、、、
長男だから、、、
周囲の目も、会社関係者も、
女であることだけが理由のような気がして、
理不尽だと思った。辛かった。
お姉ちゃんは代表取締役降りてって実印を押した時の気持ち、なんだか苦かったな。
そんな想いもあり、やはりあの場所は居心地が悪いし。
昔の思い出話しを楽しげにする母や叔母さん達。
何も知らない弟の嫁達に話す。
そんな楽しく無かったよと心がチクリとする。
だからお正月は嫌い。
今年も、10年ぶりに連絡を取った母から年始の誘いがあったのだけど(母が入院のため)
やはり自分を守るため距離を置くことにしました。
自分の気持ちを大切にしたくて、
無理や我慢をしたくなくて
誘いをやんわりと断り旅行に行きました。(^○^)
初詣は出雲大社へ、
楽しい旅になって、すこし心穏やかになれました。
こんな楽しみが無いとやってられませんっ!
そうやって時に自分を甘やかし、前進していけたらと思っています。
昔の事を思い出して記すのは、精神的に辛い作業になりますが、同時に気持ちの整理にもなります。
更新は少しずつになりますが
今年もよろしくお願いしますm(__)m
母からの手紙
先日の12月25日、クリスマスに
母から手紙と私が3歳の時の写真が送られてきた。
母からしたら懐かしい、かつて可愛かった娘(私)の写真。
どうして今更なの感は否めないが、私は半ば強制的に幼い私と写真で対面した。
親戚の会社の野球大会で初めて出来たお友達と仲良く写真に収まっている3歳の私は心から笑っていてその笑顔が純粋に楽しそうだ。
幼く、純真無垢と言う言葉がそのまま当てはまる笑顔に複雑な想いがした。
こんな時もあったんだなと、、、。
昔の記憶があの辛い時期を基本に考えてしまう自分が居る。
私は10年ほど前から、母と距離を置いてきたし、連絡も取らないで来ていた。
父と母の夫婦の間に挟まれ辛い思いもたくさんしたし、父から受けた性虐待も、母が家出をした後から酷くなって日常化してきた。
経緯を語ると長くなるのだけれど、、、
しかし今年の10月
母が癌になったことを母自ら報告して来たのを機に医者の説明を聞いたり、手術に付き添ったりして来た。
母が病になったということで、このまま無視し続け母にもし何かあった時、私自身がその時の事を後悔をするのではないのか?と母のためでなく自分のためだと思ったからだ。
それに互い歳をとり色々あったけど、実の母親であるのだから少しは歩み寄れるのではないか?と期待していた部分もあった。
母は病になったことで老い先不安で寂しいだろう。その気持ちはわかるので少し優しくしてあげようと思った。
でも、母の記憶は過去の事はなかった事になっていて無神経にわたしをえぐる。
過去の思い出を美化する。
父の話しを楽しそうに私に語る。父の人柄を褒める。(父は外面が凄くいい)
そして決定的だったのは、世間話しから「透明なゆりかご」というドラマを是非観てみてと勧めてきた。
数日後、偶然家のテレビに自動録画して撮りためていたドラマの山にあったので何気なく観てみたら産婦人科の見習い看護師の話しで、毎回テーマが違うのだが、父親に性虐待された少女が描かれている回があった。
少女は父親を庇って告白出来なくて苦悩する。
母は何を私に言いたくてこのドラマを勧めたのかと一瞬でフラッシュバックしてしまった。
私は思い切って、避け続けていた事を母に聞いてみた。私はお父さんに暴力と、性虐待を受けて児童相談所に保護されたことがあったよね。と
すると母の顔色が変わった。
あのドラマを勧めたことに、そこまで深い意味がないと言った。そして謝罪してきた。
きっと嘘ではない。そうなんだろう。
自分都合でなかった事にする。
母はいつも無神経にわたしをえぐる。
今回の写真もそう。
彼女には、クリスマスのサプライズぐらいの軽い考えなのだ。
敏感すぎる私が悪いのか?
こんな事でダメージを受けるわたしが弱いのかとまた自分で自分を責めてしまう。
やはり、また母と距離を置きたいと思った。
フラワーデモ 雨
フラワーデモ の日はどうしてか今夜も雨
なんででしょう天気が良くないです。
参加者の方は風邪などひかないように、、、。
東京駅に、今月もやはり行けそうにないけど、今夜はNHKでテレビの中継があるそうで、録画で観ようと思います。
いつかは、フラワーデモに参加したい思いはあります。
だから、毎月の11日はいてもたってもいられない気持ちになります。
同じ想いの人の話を聞きたい。
花を持って、声を上げない抗議のフラワーデモ ですが、その様子を晒す画像がネット上に出回るリスクがあるのではないかなどなど、いろいろ考え出すと行動する勇気が持てないでいます。
被害から何十年経っても、実の父親から受けた私の傷はフラワーデモ に行くことですら、過敏に神経質になってしまうのです。
それは今まで私が体験してきたセカンドレイプ的な体験があるからなのです。
でも、私はいつか私と同じような想いをしている人の力になりたいと思っています。そのために強くなりたいと思っています。
私は小学中頃から中学1年までの間、継続的に実の父から性虐待、暴力、行動を干渉され支配的な環境の中生きてきました。
どうして、どうして、辛くて、辛くて、
苦しんでいた時に、もう生きていく事に疲れてしまって居た時に、もういっそ殺してほしいと思った時反抗して顔の形が変わるほど殴られました。
腫れたわたしの顔を見た友達のお母さんが尋常でないと理解してくれ通報をしてくれました。
それをきっかけに、警察や児相に実父の性虐待を打ち明け、児童相談所に一時保護をして貰った経験もあります。
その後は、済んだこと、もうなかった事にて蓋をして生きてきたつもりでしたが
家族内の事であることは逃げようがありませんでした。
数々の不調、生きつらさ、人との関わり方などからうつ病になり10年ほど苦しんで来ました。
鬱からの回復の過程で精神学の本、自己啓発の本などなど数々の本を読むことで自分なりにこの苦しみの元にある答えを探していました。
特に愛着についての本や、PTSDについての本、自尊心の低さの原因、などはまるで私の説明書?と思うくらいその通りのことが書かれていて衝撃を受けましたが
同時にどうして私は、、、の答えが明らかになって救われ安堵したのを覚えています。
自分でも無かった事にし無視をして、強がってへっちゃらな顔をして生きてきたのに。本当の私は溺れもがき苦しんで居ました。
そんな中で私は自分だけてはなく、大切な人を傷付けていた事に気がつきました。
今だに数は減りましたがフラッシュバックして夜中にうなされ起きる事があります。
これは間違った考え方と知識としては理解していても、自分の存在を自分で否定してしまう事も、今だにあります。
こんな私の話を少しずつになりますが、残して行けたらと思っています。
#metoo #フラワーデモ
フラワーデモ
今年3月、性暴力に関する加害者の無罪判決が相次いでいます。
そんな行政の判決に怒り、憤り、思いを持っている人々が集い、性暴力を無くそうと毎月11日は全国各地で花を持ってデモが開催されています。
『フラワーデモ』の存在を知り、わたしも花を持ってデモに参加したいと考えていました。
いてもたっても居られない思いからでした。
少しでもチカラになれたら、だから今日11日、デモに参加する予定でいました。
加害者である実の父親が無罪とゆう名古屋の判決に怒りを覚えたから。
あのときの私と同じおもいをしている少女が居る。
こんな判決を下す日本、行政に対して怒りを覚えます。
少女と同じ立場にあったからこそ、抗議の意味をこめて参加したい。
とゆう思いと裏腹に、その事を考えたり触れたりすると、自身の身体が動かなくなる。
あれから30年以上は経つというのに、いまだにフラッシュバックに苦しめられています。
今日は残念ですが東京駅には行けそうにありません。
やはり長年自分の中でも秘めていた事が晒される恐怖があって、身体が動いてくれません。
いつになったら、私たち被害者は解放されるのでしょうか。
悲しみ、怒り、寂しさ、諦め、絶望、孤独、ぐちゃぐちゃになった、感情から解放され、前に進めるのでしょうか。
死ぬまでこの思いを抱えて生きて行かなければならないのはもう嫌です。
強くなりたいです。
私は私が今できることからここで発信していけたら、今日は参加出来なくても、私はあなたと一緒に居ます。
with you